(資料1)

2014.08.28   柾木久和

水野千依先生著『キリストの顔』(筑摩書房、2014年)要約

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(一部の画像と文章に『キリストの顔』以外のものあり) 


1.初期キリスト教時代

『旧約聖書』は偶像崇拝を厳しく禁じている。ローマ時代の新プラトン主義者プロティノス(250c-270)によれば、神が認識を超える存在である以上神を表象することは不可能であると主張。アウグスティヌス(354-430)も悪魔的芸術として肖像を非難(p023)。そこで人々は魚、十字架、モノグラム、羊、羊飼いなどによってキリストを表現した(01)-(05)

(01)魚と聖体によ表現、3世紀中ごろ、サン・カリストのカタコンベ(ローマ)

(02)十字架による表現、5世紀中ごろ、ガッラ・プラチディア聖堂(ラヴェンナ)

(03)XとPの組み合わせ(モノグラム)による表現、6世紀初め、サン・ヴィターレ聖堂(ラヴェンナ)

 

(04)羊(生贄の羊)による表現、6世紀中ごろ、サン・ヴィターレ(ラヴェンナ)

(05)羊飼い(よき羊飼い)による表現、3世紀中ごろ、ドミテッラのカタコンベ(ローマ)

 

2.キリスト像の登場

313年にキリスト教が公認された後、何回かの公会議を経て三位一体説と受肉説が正当化された(451年第4回カルケドンの公会議)。これを契機にキリスト像が描かれるようになった。これらのキリスト像は723年にレオン3世が発した聖像撤去令によって大半は破壊されてしまった。聖像破壊運動は843年に皇后テオドラが招集した東方の教会会議で聖像崇拝が認められるまで続いた。
一方、ローマ教皇は終始一貫して聖像を擁護したため、西方に於いては聖像破壊運動は起こらなかった。(6)は東方の代表的なキリスト像。パントクラトーレ(万物の支配者、全能者)で表現されつつも、相貌はまさに古代の異教神や哲学者の類型を示している(p036)。原型となる何らかの作品が首都コンスタンティノポリスに存在していたと考えられている(p037)。この肖像類型は「ヘレニズム型」と呼ばれ最終的には聖像破壊運動以降の東方ビザンティン世界でもまた西方中世でも一般的なキリストの肖像形式になっていった(p037一方、(7)はローマの聖堂装飾最古の部類に属するものである。ゴルゴダの丘に立つ十字架を背に、堂々たるキリストが皇帝の衣装で玉座に座っている。このようにキリストは皇帝の姿で表現された。

(06)キリストのイコン、アギア・エカテリーニ修道院(シナイ山)、6世紀前半

(07)≪玉座のキリスト≫、サンタ・プデンツィアーナ聖堂(ローマ)、4世紀末

3.その後、典礼形式や教義の相違、聖像理解の不一致をはじめ、さまざまな理由から数百年に及ぶ論争と対立を繰り広げていった東西の教会は、ついに1054年、ローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教の相互破門によりローマ・カトリック教会とギリシャ正教会とに決定的に分裂した。この関係は、1965年まで長きにわたって続くことになる。(p.051-052

4.人の手によらないイメージ(アケイロポイエトス)
    A chiero poie tos(A:否、chiero:手、poie:作る、tos:像
東方では聖像破壊運動の真っただ中で聖像擁護派が理論武装として重視した「人に手によらないイメージ」すなわちキリスト自身の奇跡力によって肖像が創造されるという聖像譚が生まれた。この思想は1枚の布の逸話に結晶する。エデッサの王アブガルのもとに届けられたイエスが顔を拭いた布で、そこには救世主の顔の痕跡=似姿が奇跡により残されていた。10世紀以降、この聖顔布は「マンデュリオン」という名で呼ばれ、ビザンティン帝国の守護的象徴として大いなる崇敬を集め、東方正教圏で無数の複製が制作されていく。
一方、こうした思想は西方ラテン世界でも一つの伝統を生みだした。ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂に由来する「ヴェロニカの聖顔布」である。聖女ヴェロニカがゴルゴダの丘へと向かうイエスに差し出したヴェールに、その血と汗を拭った痕跡からキリストの顔が浮かび上がったというものだ。(p052-053
以下に東方の「マンデュリオン」、西方の「ラテラーノの救世主像」と「ヴェロニカ」について述べる。そのほかにもアケイロポイエトスとされるサンタ・マリア・マジョーレ聖堂(ローマ)などの聖母像、ルッカのドゥオーモにある十字架のキリスト像(Il Volto Santo)、サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂(フィレンツェ)の受胎告知を受ける聖母像についても触れる。

4-1マンデュリオン

(1)伝承
皮膚病(ハンセン氏病?)を患っていたエデッサ王アブガルは使者アナニアをイエスのもとへ派遣。イエスが水で顔を洗い布で拭うとそこにイエスの似姿が刻印された。これがのちに「マンデュリオン」と呼ばれる聖顔布である。アナニアが持ち帰った「マンデュリオン」を王の全身に触れさせると皮膚病はことごとく癒された(この伝承が公式化されたのは10世紀)。別に「ゲッセマの祈り」説もある。
「マンデュリオン」は944年にコンスタンティノポリスへ移され、1204年第4回十字軍により略奪されたあと1245年パリにもたらされる。サント=シャペルに保管されていたが、フランス革命の混乱の中略奪され失われたものと考えられている。

(2)「マンデュリオン」の複製
「マンデュリオン」を忠実に複製されたものとされるものが2つある。そのひとつはジェノヴァの聖顔(8)、もう一つはヴァティカン宮殿の聖顔(9)である。(9)はおそらく(8)14世紀に新しい枠に挿入された際に古い枠が(9)に移されたものであろう。

(08)サン・バルトロメオ・デリ・アルメーニ修道院(ジェノヴァ)、制作年不詳、枠 ビザンティンの金銀細工師、14世紀

(09)ヴァティカン宮殿(ローマ)、制作年不詳、額=聖遺物容器 1623

4-2 ラテラーノの救世主像

サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂(ローマ)に隣接するサンクタ・サンクトルムに納められている救世主像もアケイロポイエトスである。これは4-3で述べる「ヴェロニカ」以前のものである。752年、教皇ステファヌス2世(在位752-757)のもとでサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂からサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂への行列とともに運ばれた。847年、教皇レオ4世は814日(聖母被昇天祭の前夜)にローマの市街をサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂まで行進した。このスペクタルは1564年まで続いた。

(10)≪救世主≫、67世紀、ラテラーノ宮殿(ロ-マ)

(11)≪救世主≫、67世紀、1112世紀に頭部を加筆、銀打ち出し装飾 1200年ごろ、サンクタ・サンクトルム礼拝堂(ローマ)

(12)

(11)の一部拡大図

このイメージがどのようにして生まれたかは定かではない。以下に諸説を紹介する。
学者A:様式的比較に基づいて5世紀半ばから6世紀半ばにローマで制作されたと推測。
学者B:コンスタンティノポリスやエデッサのアケイロポイエトス・イメージの評判が高まったため6世紀にローマで制作されたものであろう。
学者C:青い蒼穹その他の要素からシナイ山に由来する。

1112世紀のローマでは、救世主像はエルサレムからローマにもたらされたとする伝承が確立されてゆく。
1029年には、像は福音書記者ルカによって素描され天使の手によってあるいは神の介入によって衣をまとって完成されたとする説も出てくる。これらはコンスタンティノポリスの伝統とは別の聖像譚を強調しようとする西側の意図的な試みであろう。
12世紀後半になると(10)は長年にわたる典礼での利用により物理的に損傷したため人々の眼に触れないように隠匿されてゆく。
その後、キリストの顔は新しいカンヴァスに描き直され、聖顔は幾重もの絹布で覆われた。インケンティウス3世(在位1198-1216)は絹布を除去、キリストの頭部を塗り直させ、現在見られるような鍍金した銀に浮き彫り加工を施した覆いを救世主の首元まで隠れるように設置させ、頭部だけは窓越しに見えるように残させた。また、「洗足式」の儀礼に対応できるように足の部分には開閉式の扉が付された。
12世紀以降ローマ周辺からラッツィオ一帯にかけて救世主像の複製は連綿と制作された。いずれも反復的である(ビザンティンの複製理論を意識した制作プロセス)。(13)、(14)

(13)≪救世主≫(ラテラーノの≪救世主)の複製、12世紀第2四半期、ティヴォリ大聖堂

(14)アントニオッツォ・ロマーノと工房、≪救世主≫、1501年、三連祭壇画中央部分

4-3 「ヴェロニカ」

(1)伝承
聖像伝承や崇敬形態が確立し高揚するのは1213世紀である。
いくつかの伝承がある。
聖女ヴェロニカと受難の伝統
血漏を病んだ女「ベルニケ」がイエスの服に触れるやすぐさま癒されたという『新約聖書』の物語が転じて「ヴェロニカ」という聖女の伝承が作られた。キリストがゴルゴダの丘へと赴く途上茨の冠をつけたその顔からしたたる汗や血を聖女が拭くと、ヴェールに聖なる顔が転写された(1213世紀に確立した伝説)。
②サン・ピエトロ大聖堂(ロ-マ)に古くから存在した聖遺物の伝統
受難直前にキリストが自らの聖顔を拭ったものだとされている。
8世紀にさかのぼるラテン語の物語
ティベリウス帝の治癒の物語。『救世主の復讐』の物語。
1112世紀のラテン語史料
ヴェロニカがイエスの肖像を制作してくれる画家のもとに赴こうとした時、キリスト自身が聖女に送るため奇跡的痕跡を残した。
⑤フランスの詩人ロベール・ド・ボロン(12世紀後半―13世紀初頭)の『アリマタヤのヨセフ伝』(1183年ごろ)でヴェロニカ伝承が完成した。
ヴェロニカの普及の媒体は言葉でありイメージの歴史の幕開けは13世紀半ばまで待たなければならない。
このように西側に於いては東側の「マンデュリオン」に比べて百家争鳴の感がある。

(2)ヴェロニカの役割
インノケンティウス3世の時代、サン・ピエトロ大聖堂からサント・スピリト救護院への行列に参加したものは贖宥が認められた。さらに、「ヴェロニカに対する祈り」をささげると10日の贖宥が得られた(ヴァティカンは十字軍の時にも参加者に贖宥状を発行している。このようにいつも信徒からうまく資金を集めるすべを心得ている。カトリックの洗礼を受けた私ですが、資金集めのための理屈作りに長けるヴァティカンには賛同できないことが多い)。
信者は聖体の秘跡においてヴェロニカを実感することができる。サンクタ・サンクトルムの救世主像の崇敬がローマやラッツィオにとどまったのに対して、ヴェロニカは贖宥や至福直感への願望と結びつくことでローマを訪れる多くの巡礼者の最終的いわば西方教会の普遍的象徴として1314世紀に広く普及していくことになった。
教皇ヴベディクトウス3(在位1334-1343)は、個々人はこの世の終末を待つことなく審判を受け(個人の審判、私審判)現世においても至福直感を先取りし癒しを得ることができるという考え方を正統とした。

(3)ヴェロニカ像の複製
13世紀初頭になってヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂に存在したヴェロニカへの崇敬が高まり、ヴェロニカのキリスト像(複製)が普及する。ローマのヴェロニカがキリストの唯一の真の肖像として地位を固めていくにつれて、パリのマンデュリオンもヴァティカンに保管された複製も共にその存在感を弱めていった。ラテラーノの救世主像に銀の覆いが設けられ人眼から遠ざけられたことも同じ流れである。インノケンティウス3世が定めた政務とそれによって得られる贖宥のイメージとして可視化されているのが(15)である。これは残存する最古のヴェロニカである。(15)のキャプションに目を向けると、「より大いなる崇敬を魂に鼓舞するために、芸術家の技巧により救世主の顔が表現されている。」とあるように東方とは異なる考え方に基づいて制作されていることが分かる。すなわち人の手によらないイメージの表象に人間たる「芸術家」の「技巧」が積極的に介在しておりこれが西方の特徴である。
(16)はジェノヴァやヴァティカンのマンデュリオンを髣髴とさせる。これはローマに直接赴く巡礼者たちに贖宥を授ける重要なイメージとなった。当時の様子を示しているのが(17)である。

(15)マシュー・パリス、ヴェロニカ、『大年代記』、1245-1253

(16)教皇庁書記シルヴェストロの書簡、1300

(17)ステファヌス・プランク(帰属)、『ローマの驚異』、1486年ごろ

ヴェロニカの複製は1300年の聖年祭を機に大いに普及し、1350年以降その流行は一層加速していき、「ヴェロニカの画家」や「ヴェロニカの商人」が活躍した。

(18)ヴェロニカの画家、≪聖女ヴェロニカ≫、1415年ごろ、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

(19)ヴェロニカの画家、≪聖女ヴェロニカ≫、1415年ごろ、アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)

聖女が登場するヴェロニカの図像として最も古い例は13世紀後半の北イタリアに見出せる(20)。一般に普及するのは14世紀になってからのようである。
一方、ヴェロニカが「キリストの十字架の道行」の場面に挿入されるのは14世紀末である(21)

(20)ロンバルディア派、≪聖女ヴェロニカ≫、1280年ごろ

(21)マルティン。ショーンガウアー、≪カルヴォリオの道行≫、1475年ごろ

16世紀に入りギルランダイオは「キリストの道行」の物語とイコンを見事に融合させた。ここではキリストは横顔(プロフィール)で描かれ聖女に手渡されたヴェールには正面観のイコンが浮かびあがっている(22)。また、(23)の≪十字架の道行≫では画面中央で鑑賞者の方をまっすぐ見据えるキリストの顔はそれ自体が真のイコンになっている。

(22)ギルランダイオ、≪カルヴァリオへの道行≫、1505年ごろ

(23)マルティン・ショーンガウアー、≪十字架の道行≫

(4)ルネサンス芸術家の挑戦――如何にして人間の介入そのものを否定することで真正性を要求されてきたアケイロポイエトスというテーマに臨んだのかーー
ルネサンス期には芸術家の挑戦と技巧の魔術を通して「人の手によらない」ように見えるイメージが生み出された(24)(25)。デューラーは「真のイコン」たるキリストの肖像を自画像と同一化する革新をもたらした(26)

(24)ファン・エイクからのコピー、≪キリスト≫、幾何学的比例分析図、1438

(25)ベアト・アンジェリコ、≪茨の冠をつけたキリスト≫、1450年頃

(26)アルブレヒト・デューラー、≪自画像≫、1500年、アルテ・ピナコテク(ミュンヘン)

1527年、ローマが神聖ローマ帝国に劫掠された時ヴェロニカも行方不明になったてしまう。17世紀に入ってサン・ピエトロ大聖堂のドームを支える交差部四隅の壁柱の一つにヴェロニカを安置するという計画が企てられたが実際に柱の中にヴェロニカが存在するかどうかは不明。我々が見ることができるのはフランチェスコ・モーキの彫刻≪聖女ヴェロニカ≫(27)であり、これによってヴェロニカ崇敬は復活した。

(27)フランチェスコ・モーキ、≪聖女ヴェロニカ≫、1629-32

4-4 その他のアケイロポイエトス

(1)聖ルカが描いたとされる聖母像
4-2で述べたラテラーノの救世主像との関連が大きい。聖母被昇天の祝日前夜(814)サンクタ・サンクトルムからの行列に伴われたラテラーノの救世主像がサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂を訪れるのは、そこで崇敬を集めていた、聖ルカが描いたとされる名高い聖母像(28)に会うためであった。(29)も聖ルカが描いたものとされている。いずれも様式からみて6世紀ごろに制作されたものであろう(それなら例によって聖ルカが描いたオリジナルは紛失しその複製が6世紀ごろ再現されたたとする伝承を作ればいいのに)。(30)12世紀の時代様式を反映して硬い表情に変化し、しかもオリジナルにはない多くのアクセサリーが加えられている。
(28)から(30)はいずれも聖母子(または聖母)のイコンである。ローマの聖母子イコンは死者の肖像、皇帝のイメージ、異教の神々のイメージを受けついだ古典的なものであり、単にビザンティンからもたらされたものでない、という見方もある。

(28)≪聖母子(ローマ市民の安寧)≫、サンタ・アリア・マジョーレ大聖堂(ローマ)、6世紀?

(29)≪聖母(サン・シストの聖母)≫、サンタ・マリア・デル・ロザリオ聖堂(ローマ)、500年ごろ

(30)≪聖母のイコン≫、サンタ・マリア・イン・ヴィア・ラータ聖堂(ローマ)、12世紀

(2)ニコデモによるキリスト像
キリストの埋葬に加わったニコデモが制作したとされ現在でもルッカ市民の崇拝を受けている。

(31)≪キリスト像(ヴォルト・サント(聖なる顔)≫、サン・マルティーノ大聖堂(ルッカ)

(3)受胎告知の聖母
サンティッシマ・アヌンチアータ聖堂(フィレンツェ)の受胎告知の聖母礼拝堂で13世紀前半にフィレンツェの画家(作者不詳)によって描かれた聖母像は、伝承によれば、画家が聖母の顔を描くのに苦労していて眠っていたところ天使がやってきて描いたとのこと(32)。今日でもフィレンツェの人々の信心を集めている。後に、聖母像に宝石をちりばめた首飾りがかけられ現在では王冠までつけられている(34)また、教皇ジョヴァンニ・パウロ2世(在位:1978-2005)はこの聖堂を訪れ受胎告知の聖母の礼拝堂でお祈りを捧げた(33)

(32)作者不明、受胎告知、サンティシマ・アヌンツィアータ聖堂(フィレンツェ)、13世紀前半

(33)受胎告知の聖母の礼拝堂で祈りを捧げるジョヴァンニ・パウロ2

(34)宝石がちりばめられた首飾りと王冠がつけられた聖母(左図の部分)

5.キリストのプロフィール肖像

キリストのプロフィール肖像については、(22)ですでに紹介しているが、イタリアに於いて鋳造が開始されたメダルに初期の例を見ることができる(35)
ヴェロッキオがオルサンミケーレ聖堂壁籠に1438年完成させた≪聖トマソの不信≫におけるキリストのプロフィール(36)は、フィレンツェの年代記者に「最も美しい救世主の頭部」と謳われた。

(35)マッテオ・デ・バアス、≪キリストの胸像≫、14401450年ごろ

(36)アンドレオ・デル・ヴェロッキオ、≪聖トマスの不信≫(部分)、1483

ポントルモがチェルトーザ修道院(フィレンツェ)中庭回廊に描いた受難伝は1951年に壁面からはがされ、現在は修道院内に展示されているが破損が激しく図像は判別することが難しい(私もこの場所を訪問したが何が描かれているのさえ分からないくらいに損傷していた)。幸い16世紀に忠実に制作された複製が残っている。その中の≪キリストの復活≫(37)に注目すると、キリストの聖墳墓の石棺にキリストの横顔がかたどられているという。キリストの肖像はルッカのコインに求めることができる(38)

(37)ヤコポ・ダ・エンポリ、≪キリストの復活≫(ヤコポ・ダ・ポントルモのフレスコ画(1523-1525)の複製)、1582年、

()聖墳墓の石棺封印

(38)ルッカのヴォルト・サントをともなうコイン、1220-1250

 

先生は最後にご自身所有のキリストのプロフィールをともなう封蝋(39)を紹介して<キリストのプロフィール>の章を終えておられる。機会があれば是非現物を拝見したい。

(39)キリストのプロフィールをともなう封蝋、20世紀初頭

以上

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